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福生ミニ辞典〜熊川分水の起こり

熊川分水取水口
熊川分水は、高台で井戸がすくなく、水の乏しい熊川地区の人たちにとっては最大の水源であった。現在はあまり水も流れず、ところどころ堀の石垣が崩れていたり、見捨られようとしている分水ではあるが、先人たちの苦しみを忘れてはならない。熊川に分水を敷設したいという思いは、水の乏しい熊川村全住民の願いではなかったか。ではなぜ水の乏しい熊川村に玉川上水からの分水が出来なかったのか、それは鍋ヶ谷戸、内出の各集落に四カ所の井戸があったからか(通称地頭井戸、これは鍋ヶ谷戸、内出を知行していた旗本長塩、田沢両氏が水の少ない村びとのために掘ったと言い伝えられている。)資料の皆無の現在では推定するしか手だてがないが、ちなみに隣村の砂川村は明暦三年(一六五七)拝島村は元文五年(一七四○)、福生では慶応二年(一八六六)にいずれも呑水用として設けられていた。

昔の熊川分水
(今は暗渠となっている)

「熊川村分水願書之写」と言う資料があります。これは当時の東京府知事に提出した願書の写しです。この願書の冒頭に「熊川村は、玉川附の高台で井戸を掘るにも容易ではなく従って飲水にも乏しく、玉川本流から引くにしても地形上不能であり、玉川上水は村の中央を流れているが水汲場を作るにしても民家は南の端にあり、その距離は遠く離れそれに加えて年々干魃多く水不足甚だしく人民の生活に困難いたし大きな影響を及ぼし、又玉川の本流も日照りのため減水して田用水の欠乏も生じている。先年(明治八年六月)五ヶ村合併(熊川村・福生村・羽村・五ノ神村・川崎村)し、多摩村と称え、その合併事業として玉川附の開墾地への玉川分水の儀、この分水の内を熊川村に分配してくれればと村民たちが話合った。ところがこの開墾地は羽村・川崎地内に作るものであるから、結局分離二ヶ村では開墾地の堤防の保護は困難である。そこでこの堤防の保護のため助力をするから、そのかわりにこの分水の水を熊川村に分配することがきまった。」


五日市線をくぐる分水

東京府知事への上願書で「水積は寸坪五十坪の内二十五坪を熊川村に分配し、二十五坪は羽村、川崎に据置く分とすれば、一挙に羽村、川崎地先の堤防の保護も熊川村の用水の不足も補うことができる、もろもろの事情を御洞察下さって、特別のご詮議をもって分水口分配の御許可をくだされますよう、村々村民総代連署をもって願いあげます」という上願書を提出する。熊川村では南の石川弥八郎、内出の石川茂一郎、鍋ヶ谷戸の森田浪吉外、十六名、福生村は田村半十郎、川崎村は中根善八外二名、羽村は島田多三郎外二名及び戸長代理筆生中村 三郎等各氏の連署による上願である、以上をみてもわかるように玉川上水から分水を引くにあたっては、羽村、川崎との交渉もなかなか困難であった。明治十九年十一月四日に上願し、一ヶ月後の十二月二日「書面ノ趣聞届候條樋口改造工事之儀ハ全テ当庁ノ指導ヲ受クベキ事」「東京府知事高崎五六」やっと許可がおりた。


石川酒造内の石碑

明治十九年十二月十日、羽村、川崎両村へ二千五百円を払ったことにより、待望の熊川分水は着工の段階にはいる。十二月十八日から取入口予定地の、うわ土の除去作業が始まった。大量の水が流れている玉川上水路に、分水の取入口や水門の桶(入桶)も設置するには、熟達した工事技術が要されるため、手なれた、羽村の請負人田村滝蔵に工事を依頼した。取入口工事が六日間ですみ、明治二十年二月十八日から水路の工事が本格的に始まった。水路工事はそれぞれ、牛浜、鍋ヶ谷戸、内出、南の各庭場(集落)ごとにおこなわれ、さらにいくつかの工区に分けられた。たとえば牛浜は十工区、鍋ヶ谷戸は十八工区、内出は二工区、南は五工区に分けて工事がおこなわれた。左は工区の長さと、費用です。

牛浜・三三五、二米 工費三五三円
鍋ヶ谷戸・九四五米 工費四一八円九〇銭
内出・二五三米 工費一一〇円四銭
南・二三九米 工費一六九円六三銭
石川邸・三〇二米 工費一二〇円九五銭

石川の屋敷内の工事は他の工事とは別におこなわれたようである。


流れを利用して水車が活躍していた

明治二十年二月から分水路の工事が本格的に始まった。この工事にかかった費用をみてみよう。工事費用については、明治二十三年に記された「熊川村分水新規引取実費計算 並 工事受持内訳支出金明細簿」と「熊川村新規引取玉川上水費額決算 並 出金名簿 及 敷地取調書」という長い表題のついた二点の資料によると、分水工事にかかった費用は総額一万五七六円八七銭であった。経費の分担をみると、石川弥八郎が四〇二八円四八銭、森田浪吉(森田製糸場)が二七〇二円七八銭、森田八重次郎が六三九円三五銭、以上が主な高額出金者で、全村一四四軒の人たちが金額の多少こそあれ全戸で費用を負担したのである。明治二十年二月工事開始以来、延人員七千三十七人、工事費千七百十六円を投じ、総延長二千七十五メートルの熊川分水路が完成した。石川弥八郎が明治六年自邸内への分水獲得計画して以来、明治二十三年まで十七年を費やし工事が完成した。     


どうどう橋付近

石川弥八郎が酒造米の精白を目的とした水車を稼働させるために、明治六年ころから玉川上水からの分水を目論見、十七年の歳月をかけ完成し、工事の終了と共にこの分水は村のものとなり、「熊川村引取玉川上水分水規定書」がつくられた。全二十一ヶ条からなり、分水創設委員に石川弥八郎外十四名、人民総代石川長五郎外二十六名の連署があり、明治二十三年一月に出来た。この「分水規定書」からいくつかをひろってみると、第四条「六ヶ所の水落ヲ置キ水車場ト定ム」とあるが現在のところ実際に稼働していた水車は、森田製糸場、熊川神社鳥居前、石川酒造の三カ所である。残りの三カ所は水車を稼働させる権利のみを所有していたものと思われる。この第四条は電気とて未だなく製糸、精米等の動力源として水車を設けたことは実に科学的な分水の利用法として先覚者の努力を高く評価したい。


洗い場

分水完成と同時に出来た、全二十一条からなる「熊川村引取玉川上水分水規定書」の条文のいくつかをみてみる。第六条「石川弥八郎邸内に於ては、別紙絵図面に定める水路にかかわらず、水路変更、分合、水車噴水、池其他如何様の使用とするも永世本人の随意たるべきこと」第七条第十一条には石川弥八郎と同様多額の資金を出した、森田浪吉の両氏には分水の使用に関しては思いのままにしてよいと定めている。第十条「早魃のときには下河原耕地(現在の南田園)へ協議の上夜中十時間流通することを得、但し植付中は昼間といえど全流の二分の一を流すことを得」これは日照りが続き田んぼの水がなくなったときなど流す。単に田水のみならず、集落の間を巡って村民の日常水としたことなど、水車場は姿を消しその跡すら認めることはできない、分水の流れも少なく、ゴミ汚水等が流れ遠い昔のように忘れられようとしている。先覚者たちの苦労を忍びもう一度見直してみる必要があるのではないだろうか。

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