水喰らい土(みずくらいど)
伝統・文化水喰らい土(みずくらいど)
地名の由来
八王子千人同心の小島文平によって書かれた「上水紀元」(1803年・享和3年)によれば、玉川兄弟は最初、日野の渡しのそばの青柳村(国立市)から掘り始めた。しかし府中八幡下のほうへ掘り進んだところで、高低差に見誤りがあったのか、失敗し、福生村から水を引き入れることとした。
しかし、四谷まで完成して水を流すと、熊川村(福生市)の現みずくらいど公園のあるあたりで、ことごとく地中に吸い込まれてしまった。そこでさらに測量をやりなおし、取水口を現在の羽村にし、ようやく上水を完成させたという。
熊川村の地名としての「みずくれぇど」については、地元の一部の古老のあいだで「みずくれぇど」のほかに「ほりけぇ」とよぶ地域があり、玉川上水掘替えと密接にかかわりのある地名であると思われる。
延長約1キロに及ぶ掘替えを余儀なくされ、一部新たな掘割工事に従事させられた村民の苦難の思いが「みずくれぇど」の俗称となり、やがて地名として定着する課程で、一帯の広い地域の地名になったと考えられる。
古上水掘の約1キロのうち、みずくらいど公園内の40メートルと青梅線五日市線のあいだの約60メートルの掘跡は、おおかた原型をとどめている。
「上水紀元」の「水、地面に引きしずみ流れ」なかった“みずくらい”現象は、導水勾配千分の一以下のゆるやかな水路が、透水力のきわめて大きい礫層(れきそう)を通ったために、大量の浸透水が下位の拝島面に流れ落ちたことにより、給水能力が激減したことをさしたものと考えられる。
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水喰土・玉川上水開削工事の跡
福生市指定史跡 -
水喰土・玉川上水開削工事の跡位置図
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現在のみずくらいど公園入口
※出典:福生市教育委員会発行「福生歴史物語」