石浜のあか牛
創作民話 むかし福生第八話「石浜のあか牛」
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むかし、多摩川べりに、石浜というところが ありました。そこに、弥八という 男の子がいました。家には、「あか」という、かっこいいつのと、やさしい目をした 茶色の牛が かわれていました。
弥八は、あかが、田んぼや畑を たがやしたり、にもつを はこんだりしたあとは、川で 体をあらってやったり、おいしいえさを つくってやったりするのが 大すきでした。しごともいっしょ、あそびもいっしょ、夜ねるときも、牛ごやで いっしょにねるほどでした。
あかも、弥八のすがたが ちょっとでも みえないと、
「モーモー」
と、ないて さがすほどでした。
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四日も ふりつづいた雨が、やっと あがった ある日、弥八は、牛ごやで、あかの血を すいにくるあぶを おいはらっていました。
そこへ じいさまが やってきて、
「雨もやんだし、そろそろ 大川の水も ひいたんべ。あかをつれて まきざっぽひろいに いってくんろぃ」
と、いいました。
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多摩川は、雨がふりつづくと、川上に 山くずれがおきて、木がたくさん ながされてくるのです。
村人たちは、川ぎしに ひっかかった 木をひろってきて、たき木にしていました。
弥八は、あかをつれて、川原にいきました。川の水は、まだにごっていて ウズを まいていましたが、舟のわたしばのあたりには、木が たくさん ひっかかっていました。
弥八は、あかのせなかに のせきれないほど、たき木を ひろいあつめました。そろそろ かえろうかな、と おもっていると、川上から、大きなえだが ながれてきました。
「あれも ひろっていって、じいさまを びっくらさせてやんべぇ」
弥八は、手をのばして、えださきを つかみました。
「ヨイショ」
力いっぱい ひっぱったとき、ガラガラガラッ、と 足もとの石が くずれて、弥八は、川のなかに ひきずりこまれて しまいました。
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「たすけてえっ!」
弥八は、あっというまに、ながされました。
「モーッ」
それをみたあかは、ザブンと、とびこみました。そして、ウズに まかれている 弥八のきものを、しっかり 口でくわえました。
つよい川のながれに、あかも、ながされそうです。でも、がんばりました。
あかは、はなづらで、弥八を やっと きしべにおしあげました。
そのとき、また 大きな木が ながれてきて、あかの体に ぶつかりました。
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あかは、その木を、つので はらいのけようとしました。ところが、木につのが つきささってしまいました。
「モゥーッ」
あかは、ありったけの力をだして、木を ふりはらおうと、もがきました。
でも、もがけば もがくほど、つのは、木に ふかくくいこんで、足にもえだが、からみつくのです。
弥八は、みているだけで、どうすることも できません。
「モォーッ」
こらえきれなくなった あかは、弥八をみて、かなしそうに 一声なくと、木といっしょに、ドッと ながされて いってしまいました。
「あかっ、あかーっ、だれかたすけてぇ!」
弥八は、なきながら 川ぎしを おいかけました。でも、あかは 水にのまれて、あっというまに みえなくなって しまいました。
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弥八は、川ぎしに うずくまったまま、いつまでも いつまでも なげきかなしんでいました。
そういうことが あってから、村人たちは、弥八のいのちを すくったあかを、(人だすけの牛)と、ほめたたえました。
そして、村では牛を、いっそうたいせつに するようになり、それからは、だれいうとなく、石浜を 牛浜と よぶようになった、ということです。
多摩川の川原には、男の子のかたちをした 石が、いまでも かなしそうに たっているそうです。
お母様へ
●牛浜の渡し
現在の多摩橋の所にあって、後に森山渡しといわれました。
牛浜橋の近くにあった『石浜渡津跡』の石碑は、現在、中央公園に移されています。
●南の渡し
熊川から秋川の小川までの間にあって、冬は、三十八メートルの仮橋を作って渡ったそうです。現在の睦橋のあたりです。
●石浜の合戦と地名
太平記の武蔵野合戦では、足利尊氏が新田義宗に「石浜」までおいまくられた、とあって、その「石浜」は「牛浜」だという説があります。
なお、古い記録に「丑浜」とありますが、当時の政略の中心地だった高月、滝山城から見た場合、丑の方角に「石の浜」がのぞめるので、石浜→丑浜→牛浜になったと、思えないこともありません。(私見)